成都の歴史

      成都市区から30キロの広漢市では仮面で有名な数千年前の王国三星堆遺跡が発掘されている。 歴史時代においては、三国時代に蜀の都となったほか、4世紀初頭、巴氐の李特が占領して成都王を称し、成漢が建てられた。五代十国時代には前蜀、後蜀の都となり、唐代に成都は、蜀地方が温暖な地方で水運が開け、隋末の戦乱もなかったため、発展した。

      特産品としては、養蚕、絹と紙が存在し、絹は上等なものは『蜀錦』として知られた。また、成都では毎年春に『蚕市』と呼ばれる市が城内各地に立てられ、人々は群がったと伝えられる。紙は品目も多く、質も優良で名産地として知られていた。特に、『薛濤箋』という唐代の妓女の名を冠した紙は有名であった。
      また、その時代に人口が約50万人おり、揚州と成都は特に発展した商業都市であり、『揚一益二』と言われ、文人たちの楽園として知られていた。

      安禄山の攻撃の際、玄宗たちは成都へと避難を余儀なくされる。避難の途中で兵士たちにより楊国忠が殺害され、また楊貴妃も玄宗により殺されることとなった。 国内が混乱する中の756年、玄宗は皇太子の李亨に位を譲り太上皇となった。安史の乱終結後、長安に戻った玄宗は半軟禁状態となり、762年に崩御した。 宋代に成都の商業が発展し、以後四川あるいは西南中国の中心地となる。
      明代には四川布政使が駐在し、清代の1654年、四川布政使司が四川省に改称され、正式に四川省が成立した。また明末期の農民反乱軍の首領で大西皇帝を称した張献忠の拠点となったが、張献忠による人口の9割を超えるほどの殺戮と、清初期の抵抗運動や軍の反乱などにより清前半までは荒廃が続いた。 以後、100年をかけ湖北省・湖南省・広東省から移民を入れ復興させたという。
      1928年国民政府は成都市を成立させ、四川省の省会(省政府所在地)とした。1949年成都が解放されると、川西行署所在地となり、1952年四川省は復活、成都も省会に復した。1989年、副省級市に昇格。

      成都は歴史的遺産が豊富で、1982年には国家歴史文化名城に指定されている。また2000年に始まった西部大開発の拠点都市として経済も活性化している。原本-ウィキペディア